11月は干し柿づくりに精を出したのと雪囲いのため、旅散歩はお休みになってしまった。干し柿は去年初めて吊るしたのだが少々固くなったが、今年は揉む回数を増やし柔らかく仕上げることができた。11月下旬の雨も上がった12月3日、酒田のイオンに車を停め、旅散歩3回目をスタートした。今回の舞台は両羽橋下流の「最上川右岸」である。夏には花火鑑賞場所として市民に利用されるが、畑でも作っていなければ一般的には無縁の場所といえよう。「冬の河川敷に何があるのか」。ここは高校時代の思い出の場所なのだ。
自称日本一長いせんべい工場
2020年12月3日木曜日、午前9時40分、イオンの交差点を渡り東両羽町に入る。コバック酒田店の定休日を知らせる看板がおかしい。入り口から車一台分奥に、運転席側に定・休・日と一文字ずつ印刷された紙が貼られた車が通路を塞いでいる。定休日はどこの会社にもあるだろうに、もう少し普通のサインを準備できないものか。何か所か自動車工場の前を通り、最上川の土手にぶつかる。右には酒田米菓の工場が延々375m、土手と市道の細い敷地に伸びている。自称日本一長いせんべい工場とYouTubeに登場し、近年工場見学を受け入れ、酒田の観光に一役買っている。歩測を試みたが480あたりであやふやになってしまった。10分足らずで工場を抜け、いよいよ土手に上がる。遠く月山も鳥海山も頭は厚い雨雲に隠れている。冷たい風が薄の穂を揺らす河川敷に降りると、そこはスワンパークである。鳥インフルエンザ流行以前は白鳥を愛する会の餌付けが行われ、多くの親子連れが訪れていたものだが、今は突堤には規制ロープが張られ、モニュメントも崩れかけ往時の姿の片りんもない。
高校時代、応援団の練習場所
ここから300mほど下流にいった突堤が高校時代の思い出の場所である。高校の3年間、正確には足かけ3年、実2年2か月間、応援団に所属していた。入学してすぐ、1年生全員が校庭に集合させられ応援歌練習があった。その時事件は起きた。3年のI先輩から「声を出していない」と理不尽な指摘を受け、「個人指導をするから後で部室に来い」と言われ、根がまじめな私はのこのこ出かけて行った。ところが「来い」と言ったことはすっかり忘れており、「よく来た、今日から応援団に入れ」と脅され、1年生の5月から3年生の夏の甲子園予選大会敗戦まで応援団にいることになったのである。このことは普段負の過去として封印しているのだが、時々後輩に思い出させてもらう。15年前に市議会議員のT氏から、最近では民生委員のI氏からも「応援歌練習の時は怖かった」などと懐かしがられるのである。当時の応援団の練習場所は、冬と雨は校舎、それ以外は最上川河川敷の突堤だった。亀ヶ崎1丁目の学校から千石町、若竹町をランニングし、ここで空手の基本形みたいな騎馬立ちをして、一人肩車したまま20分立ち続けたものだ。応援先は基本野球大会で、盛夏正味1時間半、形勢に応じて応援するので、倒れないだけの体力が必要なのだ。そんな50年も前のことが思い出されるのである。
宮野浦の渡し船跡は分からず
50年ほど前、応援練習をしたころ作られていたのが出羽大橋である。酒田市営体育館から左岸の宮野浦まで橋梁工事中だった。50年経った今でも、酒田大火で焼けなかった区間の2車線化は出来ていない。さらに下流に歩いてみる。下瀬閘門跡地の看板がある。この閘門は、最上川と酒田港をつなぐ運河で、昭和7年に完成し、同57年の廃止まで使われていたと書いてある。この先に宮野浦の渡船場があったのだが、その跡は分からなかった。1度か2度、これを利用して団員連中と宮野浦に海水浴に行ったことが思い出される。ここの渡船はボートというより筏だったと記憶している。今のゴルフ場は牧草地で牛が放牧されていた。そこを突っ切り、今は発電風車が建っている砂浜で遊んだ。あれから50年近くなり、大半の同級生は仕事を離れたことだろう。若くして鬼籍に入った者もいる。雨が落ちてきた。11時になろうとしているので戻る。12時前にモスバーガーに入り、昼食とする。14900歩、約10㎞。テリヤキチキンバーガー1.5個分のエネルギーを消費。