9月27日、朝5時。東の空に下弦の月が浮かび、下の山々に朝焼けのグラデーションがかかっている。午前5時55分の出発は遅いほうだった。昨日けが人の手当てをしていた男性は、天狗原から南岳に上がってきて、北穂高岳から涸沢に下るというので、途中まで彼の後を追うことにする。朝日を浴びた北穂高岳の切り立った北岩壁を見ると、いったいどこを登ったら北穂高小屋に着くのか首をひねらざるを得ない。ヘルメットを被り、いったんわずかに登り、一気に下る。ハシゴ場やクサリ場を慎重に下り、飛騨側のガレ場を左手を岩壁に添わせながら一気に高度を下げる。見上げると長谷川ピークに赤いジャケットの人が立っている。笠ヶ岳が段々近くなってきた。7時を過ぎた。いよいよ大キレットに挑む。
緊張のうちに通過した大キレット
岩壁の白マルを見失わぬよう手を使い、慎重に岩を踏み下る。クサリをつかみ、崖下をあまり見ないように足を下の岩に出す。件の男性は軽快に進んでいくが、私は慎重に下る。キレットの底部からは長谷川ピークへの上りになりずんずん進む。ピーク通過の苦闘10分、最後の急勾配の下りだ。間抜けにも「Hピーク」の文字を見落としたようだ。4、5人のパーティがリュックを下ろし休憩しているので、自分のペースで下ることにする。7時35分、A沢コルに着いた。ほっと一息つける。ほぼ標準タイムでの通過である。北穂高岳までのコース最後の厳しい上りが始まる。スッパリ切れた断崖の飛騨泣き、急な岩場につけられた鉄板のステップ、クサリが連続する。幸い北穂高から来る登山者が少ないので、自分のペースで進むことができる。途中、件の男性が休んでいるので、周囲360度の動画を撮る。彼が動いたので私も最後の登りに取り掛かる。振り返ると、さっきは中岳に隠れていた槍ヶ岳が見えてくる。どうやって上ったらいいかと思っていた北穂の崖もなんとかクリアして北穂高小屋に出たのは8時45分であった。
天空のカフェで一杯のコーヒー
今日の登山開始から2時間45分、ようやく緊張がとけて、北穂高小屋の名物ドリップコーヒーを注文する。3100mのテラスで槍ヶ岳、そして辿ってきた大キレットの稜線を見ながらの一杯は至福に相応しい。この一杯を求めて、涸沢から南陵ルートを登る人も多い。件の登山者はすでに涸沢に下ったようだ。大きなビデオカメラを抱えた屈強な者たちがテラスで撮影を始めた。それを機に北峰に上がる。眺めを堪能し、9時30分に奥穂高岳目指し出発する。北穂分岐で南陵ルートを下りたことに気づき、登り返す。涸沢岳への矢印を確認して進み、正面に見えるドーム状の岩峰に向かう。滝谷側の岩稜を下り、ドームの左側から涸沢側に回り込む。再び滝沢側に回り、クサリ場を下る。さらに涸沢側、滝沢側を行き来して滝沢第4尾根を通るとザレた道になり、最低鞍部に着く。ここまで1時間経過した。前穂の段々を撮影したら涸沢岳へ向かうことにする。滝沢槍の穂先を回りD沢のコルに下りる。オダマキのコルから左に巻くようにして岩峰を登る。凹状の垂直の岩場で2度ヘルメットをぶつけた。クサリを頼りに登り涸沢岳に立ったのは11時40分であった。
ついに奥穂高岳登頂
人ごみの中涸沢岳へは登らず、すぐ白出のコルへ下ることにする。穂高岳山荘の赤いトタン屋根の先に奥穂高岳へ続く登山道が、黒い岩峰の一本の筋として白く光っている。数人の登山者と行きかいながら奥穂高山荘に着いたのは12時5分である。40分の昼食休憩後、山荘南の岩場に取り付く。すぐに2連のクサリとそれに続く2段のハシゴを登るのだが、停滞しているのは腹の出た男性のせいだ。その後岩稜帯を登り、飛騨側のルートを行けばジャンダルムが姿を見せる。西穂高岳と前穂高岳の分岐からすぐの大きなケルンと小さな祠が祀られた奥穂高岳山頂へ立ったのは13時15分のことであった。10人ほどがケルンと祠を行き来して、私の撮影の順番が来ない中、ケルンの上で2人連れの女性に撮影を依頼した。15分の滞在で奥穂高山荘へ戻った。チェックインするにはまだ早いので、普段は飲まないビールを飲むことにして涸沢の見下ろせる石垣に座り、今回の縦走を振り返ることにした。すると男女7人のグループが「小屋の看板が新しくなったね」などと懐かしんでいる。30年前のメンバーが再会しての登山だそうで、そんな彼らが羨ましくなった。今度は腰にカラビナ、ロープを背負った2人のクライマーがやってきた。前穂高東壁にトライした連中だろうか。3日間の晴れに感謝しつつ様々な人間模様が行き交う広場を後にしてチェックインした。