2018年5月の山行以外の目的の一つは、国宝彦根城見学と悲運の城安土城跡の見学であった。日本の国宝天守の城は、1537年築城の犬山城、1580年築城の世界文化遺産姫路城、1593年築城の松本城、1604年築城の彦根城、1607年築城の松江城の5基であることは誰でも知っていることであろう。戦国時代、あるいは江戸時代初期に築かれたこれらの城は、明治維新、太平洋戦争の戦火を運よく逃れ、現在私たちに優美な姿を見せてくれる。これまで松本城、犬山城、姫路城は役所の研修や旅行で見たことはあったが、2015年に国宝に指定された松江城と彦根城は見たことがなかった。そこで伊吹山に登るなら少し日延べ足伸ばししてお城見学と洒落込んだのである。

安土城の大手道

移築されてできた彦根城

ご当地キャラクターひこにゃんでおなじみの彦根城は、徳川家康の四天王の一人井伊直政の子・直継が築いた城である。関ヶ原の戦い後、大坂の豊臣氏との戦に備えて急いで作られたため、天守は大津城、太鼓門櫓は佐和山城、西の丸三重櫓は小谷城、天秤櫓は長浜城などと、近くの城からの寄せ集めた城である。3層3階の天守を飾るのは、切妻、入母屋、唐の3種の破風で、調和の見事さである。私は京橋口から場内に入った。天秤櫓、太鼓門櫓と進み本丸に上がった。残念なことに半分改修中で足場が組まれていた。それでも天守に登り彦根市内を見渡した。南西は佐和山の森がこんもりしている。戦に使われることはなかったが東海道の西の抑えとしての役目を担った往時の姿を想像した。

反対側は足場が組まれている彦根城

徹底して破城された佐和山城

豊富時代の落首に「三成に過ぎたるものが2つあり 島の左近と佐和山の城」とあるように石田三成の城として知られる佐和山城の歴史は古く、鎌倉時代に砦を築いたとある。本丸跡の標高は232.57mで三角点が設置されているということは、山であり、何もなくなったということである。5層の天守が聳えていたという佐和山城は、関ヶ原の戦に勝った徳川方が包囲し落城させられた。その後、彦根城を築くに際し、一部が移築利用されたが、残りは完璧に破壊され、石垣すら残っていない。現在、佐和山城趾はハイキングコースになっており、一部の城ファンが眺めに来るようである。私は龍潭寺の境内を突っ切って山道を登った。細い尾根道を登ると切通しや空堀の趾と思しきものがあるが確かではない。山頂(本丸)の台地には佐和山史跡略図と本丸跡の二つの看板あるが、徹底的に破壊されているため明確な説明はなかった。しかし、彦根市内と伊吹山の眺めは素晴らしく、東海と近畿の境の重要地点であることは想像できた。

佐和山から見る彦根城

日本経営の拠点、安土城

琵琶湖畔の安土山に天正4年(1576)、天下統一の拠点として築かれた安土城は天正10年、本能寺の変後入城した明智光秀が羽柴秀吉との決戦へ発った数日後、謎の放火で天主などが炎上したとされる山城である。テレビで天主が絢爛豪華だったことが報じられ、誰もが関心を抱く城跡となったことで、私も訪れてみなくなった次第である。荒島岳を下山した5月21日、大手道前の駐車場に車を入れ、直線180mの石段を登ったのは午後3時半を過ぎていた。大手道の左右は織田の家来の屋敷跡が石垣で段々に築かれており、さながら傾斜地の分譲住宅地の様である。高い石垣に囲まれた黒金門をくぐると二の丸跡、信長公御廟、本丸御殿、天主台へと続く。天守台は本丸より5、6m高く、礎石が残っている部分は地下1階で、その周囲の石垣が1階部分の基礎なのだろうか。地上6階の城はこの後建てられる天守のある城のモデルとなったものであると説明がされてあった。田んぼが広がる北側は当時は琵琶湖につながる湖があり、城を下りればすぐに船で坂本や長浜に行けたのだろう。壮大な日本経営を目前に亡くなった信長の城に相応しい風景を目に焼き付けて山を下りた。

安土城天主台の跡
著者

わたるくん

1955年生れ 登山を頻繁に行うようになったのは退職後、地元の山岳会に入ってから。 2017年から2020年まで山形県自然公園管理員(鳥海国定公園)。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です