登山を始めようとしたきっかけを思い出そうとするのだが、今ひとつはっきりしない。父に連れられた思い出もない。ただ、中学生の時、鹿ノ俣沢に山菜を採りに一緒に行ったことがある。父が当時キャラバンシューズといっていた靴にアイゼンを括り付け、腰テンゴを付け、平(急な斜面)に生えているウド、ドンゴエを採っている間、採ってきたドンゴエの皮むきをする手伝いをしたものである。高校に入るとそんな手伝いもしなくなったので、父が登山のきっかけではないことは確かだ。

役場の先輩と鳥海山登山

19歳の6月、役場の臨時職員として勤めるようになった。4,5年たったころ、登山をしていた二つ先輩と六つ先輩から鳥海山登山に誘われた。すぐにズシリと重い登山靴とキスリングを購入し、7,8人で登った。ところが雨が強くなり、河原宿小屋の軒下で雨宿りとなった。そうなると、だれが精進悪いんだとなる。私はイベントに参加すると天候がすぐれないことが多く、以来雨男のレッテルを貼られることになった。山での雨は致命的である。その40年前はゴアテックスなどというものはない。ゴム引きの雨合羽である。小降りになるのを見計らって、下りてきたと思う。「最初の登山で病みつきになった」ということではない。

河原宿からの鳥海山(9月)

運動は大の大の大嫌い

私は子供のころから運動が大嫌いであった。学校も嫌いであった。日曜日の夜になると、必ず腹が痛くなった。明日は登校しなければならないからである。最初のうちは医者の心配をしていた両親も、毎度のことなので、「早く寝れ!」と突き放す始末だった。学校で一番嫌いなのは運動会である。なぜ何度も同じ組み合わせでかけっこ練習しなければならないのだろう。いつも身長の低い順の組で走る。走るたびビりになる。まったくもって理不尽この上ない。身長が高かろうが低かろうが、かけっこの速さは関係ない。練習するのであればタイムを取って、早い人から順に走る組を決めれば、私だってもしかして5位になれたかもしれない。私の同級生は小さい奴らが一番すばしっこかったのである。初めてビリから逃れられたのは、6年生の時、4位であった。

青年期はバドミントン競技に熱中

22歳から35歳くらいまで、日曜日は地区のバドミントン大会に出場していたため、登山とは疎遠になった。バドミントンラケットを初めて握ったのは、高校の時のレクレーションである。ほかの人が空振りしたりスマッシュを打てなかったのに、なぜかクリアもドライブもスマッシュも打てた。22歳の時、同級生と共に始めたバドミントンクラブに入り、酒田のクラブの指導を受けた。次第にうまくなった。研究し、トレーニングを重ね、段々強くなっていった。しかし、学生の時から強かった人には勝てなかった。当時はサーブ権があってポイントがとれるのである。つまり、連続してポイントをとらないと点にならないのだ。35歳もになると、体力に陰りが出る。足が動かなければ、バドミントンは引退である。ちなみに、コンタクトしないスポーツで最も体力がいる競技はバドミントンであると今でも思っている。

鶴岡市温海、摩耶山からの眺め

遠方の山は定年後になってから

60歳までに登った山は、月山、岩木山、栗駒山、秋田駒ケ岳くらいである。着いた仕事によって、気持ち的に休めないからである。それに、土日の登山はみんなが登るので、挨拶はしなくてならないし、人それぞれのペースがあり苦手である。退職するとすぐ地元山岳会に入れてもらった。登山を頻繁にする団体と思いきや、鳥海山の保全に力を入れる団体であることが分かった。それなら、一人で登ることにしよう。ネット、雑誌、本などなどで研究し、装備もそこそこ揃え、準備万端出かけるようになったのは、2015年の6月、筑波山であった。

著者

わたるくん

1955年生れ 登山を頻繁に行うようになったのは退職後、地元の山岳会に入ってから。 2017年から2020年まで山形県自然公園管理員(鳥海国定公園)。

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