御嶽山を正午に下山し、次に登る山恵那山に行く前に、今回の旅のもう一つの目的地妻籠宿に寄ることにする。まず、腹ごしらえとして蕎麦を食べたいと思いつつ道の駅木曽福島に向かっていたら、道の駅三岳の手前、杉林の中にある「そば処一竹」を見つけ立ち寄る。いつもどおり盛りを頼み、せいろ2枚をあっという間に手繰った。ここにして正解だった。次に日帰り温泉を探す。トラックやダンプカーが多く通行する国道19号を南下し、野尻宿を過ぎたところで看板を見つけ、木曽川を渡ったところにある「フォレスパ木曽」に寄る。600円を支払い、掃除したての誰もいない浴槽に浸かり汗を流した。湯上り後外に出ると、左手に雲がかかっているが中央アルプスの木曽駒ケ岳を見ることができた。空木岳と縦走するか各々日帰りで登るか悩ましい山である。国道にもどるとすでに午後3時半になろうとしている。南木曾から国道256号に左折し妻籠宿に向かう。
町並み保存全国初 妻籠宿
中山道69次、江戸から数えて42番目。木曽11宿。西の起点「京都三条大橋」から近江、美濃路を経て木曽路最初の宿場が島崎藤村の生誕地として知られる「馬籠宿」である。その次が全国で初めて古い町並みを保存した宿場町「妻籠宿」である。この2宿は国道19号が木曽川沿いに作られたことで奈良井宿同様昔の景観が残ったところだ。昨年10月、NHKのよみがえる「新日本紀行」で昭和44年11月放送された「木曽妻籠宿」を見た。「売らない、貸さない、こわさない」の3原則を掲げ、生活しながら江戸時代の町並みを貴重な財産として後世に伝え、観光資源として保存する取り組みの紹介であった。その放送には、南木曽町役場の係長が家々に町並みの価値を説明し、保存協力を得る姿があった。昭和44年からの3か年事業で修繕が行われるのだが、画面には観光か、研修か、若い女性たちの姿があった。我が妹も、就職し東京にいた昭和50年ころ妻籠宿に観光に行っている。番組の最後に現在の様子として、当時の係長は現在観光協会の顧問として活躍されているようであった。
歩くのにほどよい距離とカーブ
国道脇の駐車場に車を入れ、道を渡り階段を上がると旧街道、妻籠宿に出る。およそ800mの町並みはすっかり江戸か明治時代である。福島県の大内宿は民家一軒一軒が独立しているが、ここは黒板塀に格子窓の2階家屋が軒を連ねている。微妙に曲がった旧街道の両側の建物のほとんどが土産物屋、食べ物屋だったり宿屋を営んでいる。もちろん無粋な電柱などはない。すでに午後4時を回っているので、新型コロナウイルスの影響もあるのだろうが観光客は片手に過ぎない。二つの土蔵の奥に重厚な総檜造りの「脇本陣奥谷」は往時の豪華さを偲ばせてくれる。さにり南に進み、桝形の石畳を下りるとそこにはその昔の屋根の葺き方である檜皮に石を乗せた屋根が再現されているのがいい。ほとんどのお店は閉まっているし、宿屋は開店休業状態のようで、しかもあおり戸が下りているいるので、中の人の様子がうかがえないのが残念だ。20分ほどで宿場の端に来たので、尾又橋を渡らず堤防の道を駐車場まで戻ることにする。
堤防の道は生活道路
堤防の道は、住民の生活道路であり、お店のバックヤードになっている。洗濯物も干されてあれば堤防と同じ高さの駐車場もある。山沿いの家々にだって生活道路があることだろう。駐車場に戻って、下伊那郡阿智村に向かう。国道256号を走ればよいものをナビは最短の県道109号を勧めている。それに従ったのがまずかった。園原までの山道は狭く曲がりくねり、横川川が迫っておりまことに難儀した。園原IC下から日本一の星空で有名なヘブンスそのはらを右手に見やり、富士見台公園線に入り広河原登山口手前の駐車場に着いたのは午後5時半てあった。5時を過ぎていたのでゲートが閉められていたが、日中はダンプカーが往来する林道があり、恵那山北東の登山口神坂峠に行くことができる。午後7時過ぎ、ヘッドライトが駐車場を旋回し、ドアを閉める音がし、車の窓ガラスをノックした。「お父さん、何時からいるの。ほかにだれか来た。」警察官から職務質問されたのは初めてのことである。