鳳凰三山で滑落した擦り傷が癒えたのは約2週間後の9月25日のことである。薄皮が張ったばかりなので、テープに引っ付いた皮膚をカッターで削ぎ慎重に剥がした。さて、次は何処にするか。長野県で日帰りできる山で、1山行で2座となると、焼岳と木曽駒ケ岳しか残っていない。妻の勤務シフトと一週間先の天気をにらみながら決めた日程は、10月2日に焼岳、翌日木曽駒ケ岳とした。おりしも政府は緊急時代宣言解除に向けた動きで、世間はお出かけしたくてウズウズしている。平日の山行を常としている私ではあるが、ここは『土日の人出を体験する』ことも話のタネということで、上高地の入山口沢渡に向け出発したのは10月1日の午後1時である。
沢渡は車と人出で満杯いっぱい
前日梓川SAで車中泊し、4時前SAを出発し、沢渡に着いたのは4時40分である。バスターミナル前の駐車場は満杯で足湯駐車場に何とか止めることができた。5時過ぎ、150mあろうか長蛇の列の最後尾に付く。じりじり進み、待つこと1時間。往復の切符を買って、更に10分、6時20分出発のバスに乗る。大正池を過ぎたあたりの車窓から陽に照らされた焼岳が見えた。6時48分、帝国ホテルバス停で降り、ホテルの左から田代橋に向かう。トイレを済ませ、用意してきた登山届をポストに入れる。車道を進み登山道に入ったのは7時16分である。20分歩いたところでウインドブレーカーを脱ぎリュックに突っ込む。ブナ林の所々に落ちている栃の実のほとんどはクマに食べられている。7時50分過ぎ樹々の間から目指す焼岳が拝めた。刈り払われた笹の登山道を更に進むと、単管パイプの桟道を渡る。すぐに鉄梯子を登るとゴツゴツした焼岳北峰が現れた。なおも低木の斜面を進み8時40分、長い連梯子プラス脚立の片割れを登りきれば、焼岳を遮るものは何もない。「小屋まで121歩」プラス5歩で9時丁度に焼岳小屋に着いた。
100名山登頂のスーパー小5女児に会う
小屋のベンチには、地図を見ている父親とヘルメットを被った女児がいた。女児はハーネスに2本のスリングを下げている。「岩登りもするの」と聞くと「うん」と答える。「すごいね」というと「もう100名山は全部登ったの。北海道は夏休み2週間で登った。」というではないか。「今日の予定は」と聞くと「西穂で友達に会う予定」と答える神奈川のスーパー小学5年生であった。
9時15分、スーパー親子とは右と左に分かれ、私は笹原の道を登り下りし中尾峠に出る。あとは350m噴気上げる岩稜を登るだけだ。しかし、運動不足の身にはなかなか手強い。30分登ったところで休憩を入れないと息が上がってしまう。小屋までは疎らだった登山者も焼岳までの岩の斜面に数十人いる。5分休み、噴気の側の岩場をひぃーこら登るとようやく北峰分岐に着いた。登り下りする登山者でごった返している北峰山頂までの斜面を登り山頂に着いたのは10時30分のことである。
新中の湯ルートを止め、上高地に下りる
広い焼岳山頂は40人ほどの登山者で一杯であった。登山が禁止されている南峰に登っている奴もいる。気のよさそうな男性から記念写真を撮ってもらい、5分の滞在で下山する。新中の湯ルートを下りるか、迷う。当初の予定は中の湯に下りてバスに乗るつもりだったが、「大正池バス停で乗れないことあるのでバスセンターへ戻って」とバスのアナウンスがあったためだ。中の湯に下る登山者を見つけようと南峰斜面を凝視したが分からなかった。予定変更。来た道を戻り、河童橋を見ることにする。12時50分、登山口に到着。ウエストン碑を再び訪れ、五千尺ロッヂのランチメニューに指くわえ、河童橋から穂高を眺め、バスターミナルで持参したおにぎりをパクつき、今度は蝶ヶ岳に来ることを心で誓い、上高地を後にしたのは午後1時45分である。