通学する小学生の声が開けられた窓から入ってくる。8月7日からの夏休みも昨日で終わり、今日から2学期が始まる。毎日9時ごろその日の天気を日記に記入するのだが、7月は3日、8月も今日まで4日しか晴れがない。東北南部の梅雨明けは8月2日だったのだから7月は仕方なかろうが、8月に入っても夏らしい晴れが続かないのが困る。山に行く気が起きないのだ。8月4日は晴れたので、妻からの頼みでジャガイモ掘りをした。倉庫の土間に広げたジャガイモが、長雨のせいで数十個が腐ってきて捨てなければならない。11時になる。日が射してきて、ミンミンゼミが合唱している。お盆が過ぎて夏が終わろうとしているのに「これから夏?」。

夏の始まりといえば、「半夏生」を思い出す人も多いことだろう。御承知のように半夏生は、七十二候の一つで、夏至から数えて11日目からの5日間をいう。大体7月2日ころであろうか。梅雨明け間近のころであり、農業が中心だった日本において大切な節目の日とされている。(※半夏生以外のの七十二候を言える人は俳諧に通じている人くらいだろうか。例として、蚯蚓出、麦秋至、寒蝉鳴、熊蟄穴など)2016年夏、燧ケ岳からの帰りの道で思いがけない出会いがあった。

江戸時代の雰囲気残す宿場町

福島県南会津の下郷町の大内宿は、約450mの往還の両側に、妻を向けた寄棟造の民家が立ち並んでいる。江戸時代には会津西街道(会津若松から下野の今市までの街道)の半農半宿の宿場だったところだ。明治になり、鉄道開通が山の東側、川沿いになったため、宿場としての役目が終わり、道路整備も村の東側にバイパスを通したため、江戸時代がそっくの残ってしまい、舗装した道路を土の道に戻すなどして、今では観光地として年間75万人を集めるほどである。

「半夏まつり」の看板を目にする

7月1日に会津駒ケ岳、2日午前に燧ケ岳を登った帰り、国道121号を会津田島を抜け下郷町に入ったのは午後3時になろうとしていた。湯野上を過ぎたところで「半夏まつり」の看板を発見した。そういえば大内宿にも来たかったんだと、思い出した。地図をみると4、5キロの距離である。左の山道に入り、まもなく平らなところに出た。駐車場のおじさんに誘導されるまま車を止め、宿場に向かった。高倉神社からでる行列はすでに終わったこともあってか、人ではまばらであった。高倉神社御祭礼と書かれた幟が何本も建っている。重要伝統的建造物群保存地区の看板に謂れが詳しく書かれているのを読み、宿場に入った。

茅葺の建物が両側に並ぶ

幅6mほどの道の両側に堰が流れている。歩み板が架けられ家屋敷に入るようになっている。家の角々に幟が建てられ祭りの雰囲気が感じられる。寄棟の妻は道から奥まっており、観光客が店先にたむろするのにちょうどいい。建物のほとんどは見世になっており、せんべい、かき氷、蕎麦などを商いしている。堰にはケースごと1本120円のラムネが冷やされている。名物の曲りネギで食べる高遠そばの店は所どころにある。人は乗っていないが山車も神社前の道に置かれてある。あっ、神楽をやっている。一人獅子舞に、あやおりの手妻、口上を朗々と述べている。祭りの雰囲気満載である。宿場のはずれ、すこし高台になっている浅沼食堂に着いた。元々は宿場の「見張り場」だったところで、辻になっているところにこの役目の建物がよくある。天保15年8月建立の湯殿山と刻まれた石碑が街道を見つめている。午後4時、駐車場に戻る道で、神社から戻る神官と裃の一団と出会った。神様をおさめた帰りだろうか。山に登り、祭りを見て、実に佳い一日だった。さあ、帰ろう。会津若松から磐越自動車道を西進し、次男の住む新潟で家寶の中国料理を食べるのを楽しみに。

著者

わたるくん

1955年生れ 登山を頻繁に行うようになったのは退職後、地元の山岳会に入ってから。 2017年から2020年まで山形県自然公園管理員(鳥海国定公園)。

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